姉崎日記をまとめ読みしてたら、蘇我駅でのJEF PRESS配りに工藤&岡本選手が参加してたよ~~というハナシが。
確かに、誰か配ってたよ――「なんか、今日は地味に配布してるね~」と思いながら通り過ぎてきた記憶があるもの。
差し出されたら受け取ると思うから離れたとこを通ったんだと思うけど(思いたい……)、バッグにJEFのキーホルダーやらをじゃらじゃら下げた人間が選手をスルーしました、なんてことになってたらと思うと今更ながら嫌な汗が出ます――。
今度から気をつけよう……。
☆☆記事とは関係のない、後日談☆☆
珍しく普通のトラックバックがついていました。「死語」に関するエッセイです――私には大工の父が居て、多分、言葉に関しては同じようなことを言います――偶然ですね。
「死語」とは言語学上厳密に適用するならば、話者が居なくなって使われなくなった言語のこと(ラテン語なども含む)です。 だから、本当に人間が会話で意思疎通するための言語としては死んでいるのです。死んでいて変化がないからこそラテン語のように学術記述用語として用いられたりもしますし、民族特有の希少言語のように復活させる活動がもたれたりするわけです。
だいたい一般人が日常で「死語」と言った場合は「廃語」、廃れた言葉です。時代が変わって、その語の示す物自体が無くなったり、使われなくなったりしてそれを示す単語も使われなくなった場合なんかですね。流行語なども廃語化率は高い……というか、廃語化するからこその流行語ともいえましょう。たとえば言葉の乱れの代表核である(が、最近は市民権を得ている)「全然+肯定」。全然は否定にしかつかないという定義が私もかなり身についている世代ですが、実は戦前の論文なんかを読んでいると、ときどき「全然+肯定」の形に出会います。まあ、今現在の十代の人々の話し言葉が耳に心地よいか悪いかは置いておいて、言葉は思っているより軽やかに変化します。日常で言うところの「死語」として廃れていく言葉と同じように、新しい言葉が生まれています。生活言語は生体同様、新陳代謝をするのです。
現に古典の言い回しで会話する人はいませんし、カタカナ言葉をまったく使わないで会話をする人も居ません。どこかで必ず取捨選択がなされて現状があるのです。その取捨選択というのは、言葉(あるいは単語)そのものに対する古い、とか、垢抜けないなどという決め付けで行われているのではなく、そう感じる文化的感受性により行われているんですよね。美意識や道徳心など、その国の風土と社会に根ざしたものの記号化したものが言語なのです。現在の言語は、そのまま現在の日本の文化・社会・風土を反映しているのです。
もっとも、言語と文化はある程度双方向性を有しているので、言語を変化させることによって文化の変容を促すこともできるんですけどね。そういう意味では、小さい子供に英語教えている暇があったら、心が柔軟なウチに日本の伝統やら日本人の美徳やらを身に着けさせることに専念した方がいいと思うんですけどね。英語特区とか、植民地化政策かよ!?と言いたくなる。日本人ならむしろ国語特区だろ?国語特区とか言わないといけないあたりかなりヤバいけど。愛国心の教育とか、発想は悪くないんだけど、実際に教えられるのか不安。愛国心と愛政府心は違う程度の弁えもない人とか居そう、てゆ~か、居る。
因みに私は個人的に鼻濁音保存に努めていて、鼻水が出るときは「鼻びしびし(古語)」と言いますが、なにか?
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